与謝野晶子と堺(1)

去る12月7日は、与謝野晶子の誕生日でした。それにちなみ、今回は先日訪れた与謝野晶子の生家跡を紹介しましょう。

晶子が生まれたのは今から130年ほど前、1878年になります。生家は、当時の堺県甲斐町46番屋敷にあった、駿河屋という菓子商でした。鳳(ほう)宗七の三女として生まれた晶子は、幼名を「志よう」といいました。したがって、本名は「鳳志よう(ほうしよう)」ということになります。

現在、堺周辺には、南海本線堺駅、南海高野線堺東駅、JR阪和線堺市駅があります。3本の線路がほぼ並行して走り、南海本線と南海高野線の間を、阪堺電軌阪堺線という路面電車が、これも並行して走っています。阪堺電軌が浜寺まで開通したのは1912年、晶子が34歳の頃なので、晶子が幼少の頃はまだこの軌道を目にすることはなかったと思われます。

生家は、現在の紀州街道沿いにあります。宿院の交差点から紀州街道を少し北に進んだ場所です。生家の敷地は、道路拡張のためそのほとんどが路面に変わってしまったようですが、生家跡を示す立派な碑が建っているのでそれと知ることができます。

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碑文には、「海こひし 潮の遠鳴りかぞへつつ 少女となりし 父母の家」という、晶子が故郷を懐かしんで詠んだ一首が、晶子の直筆をもとに刻まれています。解説パネルによれは、この碑は1961(昭和36)年、堺市に建てられたもっとも古い晶子の歌碑だそうです。解説パネルには、日本語に加え、英語、中国語、韓国語で晶子の生涯が説明されています。

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解説パネルにある地図から、生家のあった場所は今ほとんど道路であることがわかります。東側の歩道が昔の紀州街道、そこに店の正面が面していたようです。時代とともに、街の姿は大きくかわっていくのですね。

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ところで、この解説パネル、くねくね折れ曲がっていますが、なぜだかわかりますか。車道側からみると、その折れ曲がった空間の裏に、低圧地上分岐箱なる電力設備の箱があるのです。もともとこの箱があった場所に、それを避けるように、解説パネルがデザインされたようです。街のインフラを維持しつつ、景観を損ねないように文化の息吹を守る工夫、ちょっと素敵だな、と思いました。

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ところが、ある本の写真を見ると、この碑、今とはちょっと違う場所に設置されていたようなのです。それについては、次号で紹介したいと思います。

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