与謝野晶子の歌碑を描く風景印

与謝野晶子は、明治21年、堺女学校に入学しました。この女学校、明治33年に堺市立堺高等女学校となり、明治45年に府立、昭和23年には共学となり、名称も大阪府立泉陽高等学校となり、現在に至ります。

先日、府立泉陽高校のそばにある堺材木町郵便局を訪れました。この局の風景印には、前回も紹介した、堺旧灯台のほかに、なにやら碑のようなものが描かれています。日本郵趣出版の『新版 風景スタンプ集』の解説によれば、これは「晶子の歌碑」ということだそうです。

画像


画像


堺市内には数多くの晶子の歌碑がありますが、この風景印に描かれているのは、どの碑なのでしょうか。

これは、郵便局の近くにある、覚応寺内の歌碑だと思われます。

覚応寺の住職河野鉄南氏は歌人でもあり、東京新詩社の与謝野鉄幹とは旧知の間柄でした。晶子が、河野鉄南や河井酔茗たちが結成した浪華青年文学会(のちの「関西青年文学会」)に入会したのは明治32年。晶子はこの雑誌に短歌を発表するようになります。翌33年には、講演のため与謝野鉄幹が大阪にやってきます。その晶子と与謝野鉄幹をひきあわせたのが、この河野鉄南氏だったそうです。この人がいなければ、晶子が残した数々の名作も生まれなかったかもしれません。

覚応寺の道路に面した格子戸から、晶子の歌碑を見ることができます。

画像


画像


画像


画像


この碑には、「その子はたち くしにながるゝくろかみの おごりの春の うつくしきかな」の歌が刻まれています。毎年5月29日の晶子の命日には、この覚応寺で白桜忌が開かれているそうです。

実は、泉陽高校の中にも晶子の歌碑があります。校門の前まではたどり着いたのですが、どうも一般の見学者が校内に入るのは憚られ、今回は見学をあきらめました。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック