高浜虚子と江ノ電

七草を過ぎて、昨日は鏡開き。そろそろ正月気分も抜ける頃かと思いますが、せっかくの年初なので、歳初めにふさわしい俳句とその句碑を紹介したいと思います。

最近、NHKのスペシャルドラマ「坂の上の雲」で秋山兄弟の出身地として注目をあびている松山は、ドラマにも登場する正岡子規を筆頭に、高浜虚子、河東碧梧桐など多くの俳人を生んだ土地でもあります。今回紹介するのは、鎌倉にある高浜虚子の句碑です。

高浜虚子は、子規より七つ年下でした。子規の没後、その意思を継いで句誌「ホトトギス」を主宰し、夏目漱石ら多くの文人と交流を持ち、俳句や写生文の分野で大きな功績を残しました。明治43年、当時東京に住んでいた37歳の虚子は鎌倉の由比ガ浜に移り住み、昭和34年に85歳で亡くなるまで、約50年にわたり鎌倉で過ごしました。

虚子が住んだ家は虚子庵と呼ばれ、今は世代も変わってその建物は残っていませんが、旧居あとには「波音の 由井ヶ濱より 初電車」の句碑が残されています。「電車」とは虚子庵のすぐ脇を走っている江ノ電のこと。年明けに初めて線路を過ぎる電車のゴトゴトいう音に混じって、由比ガ浜からもほど近いこの家では波音も聞こえていたのかもしれません。

さて、ここで紹介するのは、高浜虚子がこの鎌倉から差し出した葉書です。

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葉書は、昭和29(1954)年6月21日に発行された、国会議事堂をデザインした、いわゆる「新議事堂はがき」、消印は昭和33年11月4日の鎌倉局の機械印。差出人として「鎌倉市原ノ台 高濱虚子」の印が押されています。

あて先は、「東京都目黒区上目黒7-1197 小幡九龍様」。
小幡九竜という俳人が実在するので、おそらくその方に宛てたものと思われます。小幡九竜の俳句には、「死と隣る過去いくたびぞ震災忌」「礼受や奥に華やぐ声のあり」「山百合の匂ひに噎せて君とゐし 」などがあります。

さて、葉書の文面は以下の通りです。

「御念書拝受致しました。たいした文字でもありませんでしたが、近来兎角俳壇に議論許りが多くて、本来の面目を失ふやうな傾向がないとも限りませんから一言しておいたのでございます。些細な文字がお目にとまりまして御同情ある書を頂き有難うございました。
何かと御多忙の事と拝察致します。政治の事は少しも分りませんから唯御苦労を拝察しをる許りでございます。御無沙汰御詫び旁々御礼迄 敬具」

詳しいことはわかりませんが、虚子がどこかに書いた文章に対して、小幡氏から何らかのアドバイスを受け、それに対するお礼を認めたもののようです。虚子は明治34年に亡くなっているので、これは亡くなる前年、84歳の虚子が書いたもの、ということになります。

この葉書は、藤沢市内の某古書店でガラスケースに展示されているものを見つけ購入しました。せっかくですので、この葉書を持参して、虚子の句碑を訪れてみました。

江ノ電由比ガ浜駅を降り、改札の前を横切っている道を左に進み、踏切を越えて一つ目のT字路を右に曲がったところが虚子庵跡です。小さな踏切のそばに、ひっそりと句碑が立っています。

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解説によれば、句碑の建立は昭和57年4月だそうです。

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踏み切りの反対側から、句碑のある一角を眺めた写真です。踏み切りは車一台がやっと通れるほどの幅。遮断機にさえぎられて、句碑はほとんど見えませんね。

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せっかくなので、持参したはがきと句碑の前で一枚、記念撮影。ほんの一瞬、この葉書が、書かれた場所に里帰りした、と言えなくもないですね。

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ところで、ある資料を調べてみると、虚子はこの付近で二回、引越しをしているらしいのです。それについては、また次回、深掘りしてみたいと思います。

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