陸羯南の年賀状

あっという間に1月も終わってしまいました。年賀状の季節もすっかり過ぎてしまいましたが、今回は明治時代の年賀状を紹介したいと思います。

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これは、陸羯南(くがかつなん)が差し出した年賀状です。陸の本名は、陸實。明治時代に、新聞「日本」を発行していたジャーナリストです。俳人正岡子規を世に送り出すのに大いに貢献した人としても有名です。

NHKのドラマ「坂の上の雲」では、佐野史郎が陸羯南を演じていました。
http://www.tvlife.jp/news/ph_090117_03_006.php

はがきの宛名は「東京府荏原郡大森 稲垣満次郎殿」となっています。表面に二つの丸一型印が押されています。印面には、このはがきが差し出された武蔵下谷局の明治30年1月2日の消印、その下には、武蔵大森局の明治30年1月4日の到着印が見えます。

左側の枠の外に、「陸實」の署名が見られますが、本人の筆跡について詳しくないので、直筆なのかどうかはわかりません。

あて先の稲垣満次郎は、南進論を唱えたことで知られる、明治時代の外交官です。東大を出でケンブリッジに留学、大学では日本人クラブを設立して英国紳士のマナーを研究したと言います。1861年9月26日生まれですから、1857年11月30日生まれの陸の4つ年下、ということになります。

この賀状が送られた1897(明治30)年、36歳の稲垣はシャム(現在のタイ)の最初の弁理公使となり、またその後スペイン公使をつとめましたが、1908(明治41)年11月25日に任地マドリードで病死しています。

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はがき裏面の文面は、全面印刷で「新春之御慶芽出度申納候 明治三十年一月一日」
住所表記は「東京下谷区上根岸町八十六番地 陸實」となっています。

羯南は、正岡子規の叔父、加藤拓川と司法省法学校からの親友でした。それが縁で、自らが経営する新聞社で子規を採用し、賀状にある住所(上根岸町86番地)の隣に子規を住まわせました。これが現在も復元されている子規庵です。

さて、使われている葉書は、小判はがきと呼ばれているもので、表面は飾り枠で囲まれており、現在の葉書とは趣が違いますね。表面の飾り枠の下部には「大日本帝国政府大蔵省印刷局製造」の文字が入っています。当時、普通のはがきとして使われていたものです。

ところで、この時はまだ年賀はがきというものは発売されていませんでした。

1871年(明治4年)に郵便制度が発足した当時の人たちは、書状(封筒)で年賀の挨拶をやり取りしていました。

1873(明治6)年、郵便はがきが初めて発売され、郵便の全国均一料金制が実施されました。この頃から、はがきによる年賀の挨拶のやり取りが急速に広まりました。

そして、当時は、年があけてから賀状をやりとりするのが一般的だったそうなのです。

1899(明治32)年、いやゆる「年賀郵便特別取扱」が開始されます。年賀状を年内に出せば、元旦に配達してくれる、という、今ではごくあたりまえのサービスです。この年賀郵便特別取扱は最初一部の局のみで始まりましたが、徐々に増えていき、1905(明治38)年には、全国すべての郵便局でこのサービスが実施されるようになりました。

ちなみに、現在私たちが利用しているお年玉付き年賀はがきは、1950(昭和25)年の年賀状用として1949(昭和24)年12月1日に初めて発行されました。意外と新しいのですね。

陸羯南の賀状は1897(明治30)年の1月2日に差し出されています。当時は、年賀はがきがなかったので、普通のはがきを使っていたのですね。しかも年があけてから差し出したのは、出すのを忘れていたわけではなく、当時は一般的なことだったのですね。

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この記事へのコメント

高木
2013年01月22日 23:21
陸羯南研究会の高木と申します、是非このはがきを拝見できますでしょうか
2013年01月25日 07:44
高木さま
コメントありがとうございます。
ぜひ情報交換させていただければと思います。よろしければ連絡先をお知らせいただけますでしょうか。

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