啄木と小樽

小樽市内の高台にある小さな神社、水天宮の境内に、啄木の歌碑が建っています。

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歌碑には、啄木が小樽在住時代に詠んだ一首、

かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ

が刻まれています。

昨年10月、この歌碑を訪れました。

その際の訪問記とあわせて、なぜ啄木が小樽にやってきたのかを見てみましょう。

明治39年、数えで21歳の啄木は、故郷渋民村の渋民小学校で代用教員をしていました。この頃、すでに啄木は結婚し、一児の父でしたが、父が家出したことから、妹と老母の面倒もみなければならない立場にありました。生活は困窮を極め、借金の日々が続いていました。

啄木は文学で身を立てようと日ごろから苦悩しており、ついに函館の移住を決意します。明治以降、北海道は急速に開拓が進み、自由闊達で、さかんに新興勢力が進出し、啄木が移住を決意した頃は、フロンティアスピリッツあふれる若者たちを引きつける何かがあったようです。

明治40年5月、石川啄木は函館にやってきました。同人雑誌の知人の紹介で、まずは商業会議所の選挙人名簿の製作、という職を得ます。しかし相変わらず生活は苦しく、函館日々新聞の遊軍記者として働くことになります。

ところが、新聞記者となって一週間後の明治40年8月25日、函館大火が発生、全市の三分の二が焼失しました。これを機に、啄木は新たな職を求めて札幌へ移ります。

函館を後にしたのは9月13日。札幌では、北門新報社の校正係として働き始めますが、新聞社の経営は苦しく、札幌滞在わずか二週間後に、職場の人の勧めで小樽日報社へ移ることになりました。

明治40年9月27日、啄木はついに小樽にやってきました。中央小樽駅の駅長のもとに、啄木の姉が嫁いでいたという事情もあって、小樽は啄木にとってなじみがあったのでしょう。

9月28日、啄木は新築家屋の小樽日報社に出社しました。実は翌年1月19日に、社内のゴタゴタが原因で、啄木はさらに釧路新聞社へ移るのですが、それまでの数ヶ月、啄木は小樽で暮らしたのです。

先ほど紹介した歌碑は、水天宮という小さな神社の境内にあります。

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小樽日報社では、啄木はしきりと議論することが多かったようで、その印象が声の荒さ、と表現されているのでしょう。ただ、どちらかというと本州の人から見ると早口でぶっきらぼうに聞こえる北海道弁を話す人たちが、実は皆心優しい人たちだというニュアンスも、含まれているでは、と、北海道出身の私などは思ってしまいます。

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啄木の歌碑のそばには、三ツ谷謡村(みつやようそん)の句碑もあります。こちらは自然石を利用したつくりで、「柳絮(りゅうじょ)とび/我が街に/夏/来たりけり」とあります。

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水天宮の本殿です。建立は、1919年(大正8)とのこと。

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歌碑の脇から眺めると、小樽の街や運河、港に停泊する船などが一望に見渡せます。

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すぐ下でマンションの建設も始まっていますが、背の高い建物はあまりありません。

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水天宮に至る道の脇に、小樽聖公会の教会が建っています。1908年に建てられた、木造ゴシック様式の聖堂は、小樽市の歴史的建造物に指定されているとか。

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水天宮へ向かう階段から振り向いた景色です。海の方角とは反対になります。右側に、小樽聖公会教会が見えます。かなり急な坂道です。この一帯は坂や階段が続いており、歩いてまわると良い運動になります。

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参考までに、水天宮周辺の地図をあげておきます。

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この日は、同行した中学時代の友人たちと、小樽市内で寿司を堪能しました。さすが北海道ですね。ネタも新鮮で、言うことなしです。

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