島村抱月とカチューシャの唄

日本近代劇の普及に大きな功績を残した島村抱月。今日は、そんな抱月の生誕の地の小型印を紹介しましょう。

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島村抱月は、島根県那賀郡小国村(現在の金城町小国)で生まれました。現在、浜田市金城町には、島村抱月にゆかりのある場所に説明板が設置され、「島村抱月文学散歩コース」が設けらています。小型印にデザインされているのも、これらの解説板と思われます。後ろの山は雲月山でしょうか。

青年の頃、病弱な母を治療したい一心で医者を志していた抱月は、病院の薬局の見習いや裁判所の給仕を勤めていたといいます。

この裁判所に伊藤孫一という同僚がいたのですが、この人が森鴎外と同郷で鴎外とも交流があったことから、抱月はこの孫一を通じて文学や藝術の世界に魅せられていくようになりました。

この裁判所にいた島村文耕という検事が抱月の向学心を認め、将来島村家の養子になる約束で、学資を支援してくれることになりました。島村文耕の支援で上京し、東京専門学校(現在の早稲田大学)文学科へ入学したのは明治24年。大学を卒業したのち、抱月は島村検事の姪イチと結婚します。このとき、抱月の姓は「佐々山」から「島村」に変わりました。

明治44年、抱月は早稲田の文芸協会でイプセンの『人形の家』を上演しました。この時、ノラ役を勤めたのが女優の松井須磨子。妻子ある抱月と須磨子の間には次第に恋愛感情が芽生え、それが問題となって、抱月は大正2年には早大教授の地位を捨て、所属していた文芸協会の幹事も辞することになります。抱月はその後、須磨子とともに芸術座を立ち上げています。

トルストイ原作の『復活』の劇中歌である「カチューシャの唄」は、相馬御風とともに抱月が作詞しました。20世紀シリーズの第2集(1999年9月22日発行)の一枚に、このカチューシャの唄をデザインしたものがあります。

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中央に松井須磨子、右に抱月、バックに『カチューシャの唄』の楽譜表紙がデザインされています。歌の歌詞にある「カチューシャかわいや わかれのつらさ」は、当時流行語として一世を風靡しました。

抱月は、1918年(大正7)11月5日、スペイン風邪にかかり、東京で孤独な死を遂げました。享年47歳。松井須磨子もその後を追うように、二ヵ月後(翌年1月5日)に自殺しています。このとき、須磨子も、わずか32歳でした。

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