石川啄木のフレーム切手

今年は、石川啄木が歌集『一握の砂』を刊行して100年目にあたります。それを記念して、フレーム切手が発行されましたので紹介したいと思います。

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『一握の砂』は、1910年 (明治43年)に刊行された石川啄木の第一歌集です。このとき、啄木は24歳。三行書きによる独自の形式が話題となり、多くの歌人が影響を受けています。啄木より10年若い宮澤賢治もその一人で、この『一握の砂』刊行後に短歌の創作を始めています。賢治は啄木が通っていた岩手県盛岡中学の後輩でもあることから、岩手をテーマに詠んだ啄木の短歌には賢治も親しみを感じていたに違いありません。

さて、フレーム切手の地やそれぞれの切手には、『一握の砂』に収録された歌がアレンジされていますので、見て行きましょう。

まず、フレーム切手の地の部分。

いのちなき砂のかなしさよ
さらさらと
握れば指のあひだより落つ

頬につたふ
なみだのごわず
一握の砂を示しし人を忘れず

二つ目の短歌にある「一握の砂」という文句が、歌集のタイトルになりました。

切手を左から見ていきましょう。まずは一段目。

あたらしき心もとめて
名も知らぬ
街など今日もさまよひて来ぬ

この歌は、1910(明43)年8月3日の夜から4日にかけて作られた24首のうちの一つで、この直後の8月14日の東京朝日新聞に掲載されています。この24首のうち、『一握の砂』には改作も含めて19首が採録されています。当時、政府による文学や思想に対する弾圧が厳しく、啄木自身もこの少し前に、渾身の原稿が採用されずに苦悩しているという事実があり、新しい何かを模索しようともがく啄木の姿が感じられます。切手の背景には、明治35年秋に撮影された16歳の若き啄木の肖像が使われています。

その昔
小学校の柾屋根に我が投げし鞠
いかにかなりけむ

啄木が通った渋民尋常小学校の写真が使われています。

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て
妻としたしむ

啄木と妻堀合節子が初めて出会ったのは明治32年の頃と言われています。この時二人はわずか13歳。大人たちの反対にあいながらも苦節六年、19歳で二人はめでたく結婚しました。二人が婚約した頃の写真が背景です。つつましい新婚生活が目に浮かぶ一首です。

宗次郎に
おかねが泣きて口説き居り
大根の花白きゆふぐれ

「スバル」明治43年11月号に初めて掲載されたこの歌は、宗次郎という酒飲みの夫に生活の苦しさを訴える妻おかねの姿を詠んだものです。渋民の農村にモデルがいたようですが、夕暮れにうかぶ大根の白い花が、農村の風景に彩を添えて、一幅の絵のようです。


わが妻のむかしの願ひ
音楽のことにかかりき
今はうたはず

啄木の妻節子は結婚前、バイオリンを習い、歌も得意だったと言います。しかし、結婚してからは日々の生活に終われ、音楽の世界に打ち込みたいという妻の夢は、過去のものになってしまいました。なんだか現代の我々にも身につまされるような感覚が、さりげなく詠まれています。


さて、二段目です。

ふるさとの山に向ひて
言うことなし
ふるさとの山はありがたきかな

啄木の故郷渋民からは、岩手山がよく見えます。啄木にとって、岩手山は心のよりどころだったのでしょう。山の少ない都会に暮らしていると、故郷に帰ったときに大きな山がどっしり構えているのに接して、ああ、自分はむかしこの山を見上げながら育ったのだな、という感動がこみ上げてくることがあると思います。私も、都会暮らしが長いのですが、故郷の北海道に帰省し、畑の向こうに連なる山並みを見ていると、自然が変わらずそこにあるということに、なぜかほっとします。


やはらかに柳あをめる
北上の岸辺目に見ゆ
泣けとごとくに

北上川の河畔に初めて啄木の歌碑が建てられたとき、この歌が選ばれました。私も好きな歌の一つです。遠く故郷を離れて暮らす啄木の目には、北上川の滔々とした悠久の流れがいつも目の前の景色として思い出されたことでしょう。実際に眼前に広がる景色を見て泣くのではなく、心の中に甦る風景を想いながら、泣いているように私には感じられます。


潮かをる北の浜辺の
砂山のかの浜薔薇よ
今年も咲けるや

この歌は、函館の大森浜にある啄木小公園の歌碑に刻まれています。この小公園については、以前、ブログでも紹介しました。
http://ikezawa.at.webry.info/201008/article_2.html

「今年も咲けるや」というフレーズからもわかるように、函館で暮らした頃を思い出して後年詠んだ歌ですが、北風に耐えながら可憐な花をつけるはまなすには、函館で交流した多くの友人たちとの思い出がこめられているようにも感じられます。


東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる

啄木の歌の中でも、もっとも有名な一首です。私は中学校の頃に、この歌を国語の教科書で読んだような記憶があります。モデルは函館の大森浜という説が有力ですが、大森浜は磯ではなく砂浜なので、もしかすると別の海岸をイメージして詠んだのかもしれません。


最後の切手には、短歌ではなく詩の一節がとりあげられています。

年若き旅人よ、何故に
さはうつむきて辿り給ふや、
目をあげ給へ、
常に高きを見給へ。

これは、啄木が盛岡中学の後輩から求められて、盛岡中学校校友会雑誌第10号(明治40年9月20日発行)に寄稿したエッセイ『一握の砂』の冒頭のフレーズです。このあと、「かの蒼空にまして大いなるもの、何処にあるべしや。」と続き、若者を応援する啄木の意気込みが感じられる一節です。

啄木の歌には一つ一つにドラマがあり、興味はつきません。

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  • 啄木と銀座

    Excerpt: 昨日、4月13日は、石川啄木が亡くなってちょうど100年目にあたる日でした。それにちなんで、啄木の歌碑がデザインされた銀座の朝日ビル内郵便局の風景印を紹介しましょう。 Weblog: 切手と文学 racked: 2012-04-14 17:37