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zoom RSS 『ガラスのうさぎ』と二宮(1)

<<   作成日時 : 2011/01/05 23:58   >>

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自宅に届いた年賀状に、二宮局の風景印を押印したものが二通ありました。今年の干支にちなんで、うさぎに関連した風景印をわざわざ選んで押印していただいたようです。風景印には、うさぎを抱いた少女の像と、「ガラスのうさぎ」という文字が刻まれた碑のようなものがデザインされています。早速、この風景印のデザインのもととなった像を訪問してきましたので、紹介したいと思います。

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以前、このブログで、大磯にある島崎藤村の旧居を紹介しましたが、その大磯から東海道線で小田原方面に一駅行くと二宮です。二宮駅の南口を降りると、すぐ目の前にあるタクシー乗り場のロータリーに、この像が立っていました。

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昭和20年8月5日、この二宮駅で、米国の艦載機P51の機銃掃射により尊い命が奪われました。その時、目の前で父親を失った少女がいました。この少女、高木敏子さんが、戦争の中を生きぬいた体験を綴った名作『ガラスのうさぎ』にちなみ、二宮駅の前に像が建てられたとのことです。

高木敏子さんは東京の本所区で育ちました。父はガラス工場を経営していましたが、昭和19年8月、本土への空襲が激しくなり、当時国民学校の六年生だった敏子さんは二人の妹とともに二宮にある母親の知人の家へ疎開することになりました。しかし、幼い妹たちは寂しさに耐えかねて東京の母親のもとに戻ってしまいます。そして昭和20年3月10日、東京大空襲で下町一帯は焼野原になり、父親は警防団の役員として活動しており無事でしたが、母親と二人の妹は消息不明になってしまいました。

敏子さんは父親と自宅の焼け跡を訪れ、ガラス製のうさぎの置物を見つけます。半分溶けてしまったその置物は父の作品で、家の床の間に飾ってあったものでした。敏子さんはこのうさぎを大切に手提げ袋に入れて、疎開先に持って帰ります。父は職を探すため新潟に向かい、敏子さんは母親と妹を失った悲しみの中で一人、疎開先の二宮で暮らしました。

昭和20年8月4日、仕事の目処がついた父親が、二宮に敏子さんを迎えに来ました。翌8月5日、終戦のわずか10日前、親子二人は新潟に向かうため、二宮駅に向かいました。これでやっと父と一緒に暮らせる。敏子さんの期待は高まります。しかし、二人は電車に乗ることはできませんでした。この二宮駅を、10機編成の米軍艦載機P-51の機銃掃射が襲ったのです。

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像が建てられたのは、悲劇が起きて36年目の昭和56年(1981)年。像の台座には、「1981.8.5」と刻まれていました。「圓鍔作」と見えるのは、像の作者、文化勲章受賞者の彫刻家、圓鍔勝三氏のサインです。

像が抱いているうさぎは半透明のガラスでできており、作品に登場するガラス製のうさぎのイメージを、よりリアルに感じることができます。

ところで、風景印には「ガラスのうさぎ」と書かれた碑がデザインされていますが、駅前にこのような碑は見当たりませんでした。ロータリーには、同じような形状の碑がありましたが、これは「伊達時彰徳碑」で、明治維新以降に二宮駅の開設など、二宮の発展に尽力した伊達時氏の功績を称えるために、昭和26年に建てられた碑です。

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左奥に、少女の像の背中が見えます。

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像の背後から、ちょうど西に傾きかけた太陽をバックに撮影してみました。

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さて、この二宮では、もうひとつ、うさぎにちなむものを発見しましたので、次回紹介したいと思います。

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