広瀬川と朔太郎詩碑

前橋局の風景印には、広瀬川とともに萩原朔太郎の詩碑がデザインされています。前橋市内にあるこの碑を、実際に訪ねてきました。

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前橋駅の北口を出て国道50号線まで歩きます。にぎやかなアーケード街(中央通り)の東側に、国道17号線が走っています。この17号線には竪町(たつまち)通りという標識がありましたが、前回のブログで紹介したように、この竪町通りと50号線が交差するあたりに朔太郎の生家跡があります。生家跡からさらに17号線を北に進むと、広瀬川にぶつかります。ここに架かっている橋が、厩橋です。

朔太郎の詩碑は、この厩橋のたもとにあります。

広瀬川沿いは遊歩道が整備されており、朔太郎以外にも前橋ゆかりの詩人の詩碑が並び、ちょっとした文学散歩を楽しめるスポットになっています。

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詩碑には、朔太郎の詩「廣瀬川」の一節が刻まれています。

廣瀬川

廣瀬川ひろく流れたり
時さればみな幻想は消えゆかん。
われの生涯(らいふ)を釣らんとして
過去の日川辺に糸をたれしが
ああかの幸福は遠きにすぎさり
ちひさき魚は眼にもとまらず。

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この詩は、大正14年、朔太郎が38歳の時に編んだ詩集『純情小曲集』に収められているものです。この詩集は、「愛燐詩集」と「郷土望郷詩」の二部で構成されており、「広瀬川」は後者の中の一篇です。

この詩集刊行当時、朔太郎は東京の田端で、妻子とともに暮らしていました。周辺には室生犀星や芥川龍之介らも住み、多くの文士たちと交流を深めた時期でした。朔太郎は、時代とともに移り変わってゆく人生、過ぎ去った幸福な時代、それらをすべてつつみこんで、昔と変わることなく流れ行く故郷の川に、望郷の念をあつくしたのかもしれません。

詩碑の裏面には、以下の記述がありました。

昭和四十五年五月十日
前橋市観光協会
萩原朔太郎研究会

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1969年(昭和44年)の朔太郎忌の際、前橋にやってきた詩人伊藤信吉が、病気で療養していた渋谷国忠を見舞った際に、広瀬川河畔に朔太郎の詩碑を建立する話が持ち上がったといいます。それがこの詩碑誕生のきっかけでした。

アフリカ産黒御影石に刻まれているのは、『純情小曲集』初版の中の「広瀬川」の活字を拡大したものです。朔太郎の詩碑としては、敷島公園にある「帰郷」の詩碑に続き、二つ目でした。除幕式は、1970年5月10日、朔太郎の命日に行われました。

この詩碑を支える左側の柱は、萩原朔太郎の実家だった萩原医院の門柱の一本でした。二本あった門柱のうちもう一本は、生家跡の碑として使われています。

http://ikezawa.at.webry.info/201103/article_1.html

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せっかくですので、風景印と一緒に記念撮影。

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600年ほど前までは、広瀬川の一帯が利根川の本流でした。15世紀の初めの応永の大洪水によって今の利根川と広瀬川の流れが形作られたといわれています。現在の広瀬川は、渋川市で利根川と別れて前橋市内を流れ、伊勢崎市で利根川と合流しています。かつて、河畔には製糸工場があり、その工場の動力として川に水車も見られたと言います。

私が訪問したのは2月上旬でしたので、河畔に緑は見られませんでしたが、風景印には川面に繁る柳の枝も見えます。夏には、一帯に涼しげな木陰を提供してくれるのでしょう。

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私の手元にあるこの風景印、群馬県の高崎ハムのエコーはがきに押印されています。風景印が地元ゆかりのエコーに押されているのも、味わいがあっていいですね。

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  • これは朔太郎の詩碑なのか?

    Excerpt: 前橋局のふみの日の小型印(昭和58年7月23日)を何気なく眺めていると、何やら碑のようなものが描かれているのに気づきました。 Weblog: 切手と文学 racked: 2011-08-05 00:25