啄木と札幌(1)わずか二週間の滞在

札幌の大通公園と言えば、テレビ塔と噴水、そして屋台の焼きとうもろこしといったイメージでしょうか。夏はビアガーデン、冬には雪祭りのメイン会場となるのも、この大通公園です。

札幌市内の高校に通っていた私には、大通公園はちょっとしたデートコースでした。陽光に反射する噴水の飛沫を眺めていると、あの頃の淡い思い出がよみがえってきます。

さて、明治40年に一年ほど北海道を漂泊した啄木は、ほんのわずかですが札幌にも滞在していました。啄木が故郷の岩手から函館にやってきたのは明治40年5月。弥生尋常小学校で代用教員を務め、函館日日新聞社の遊軍記者としても活躍していましたが、8月25日に発生した函館大火で小学校が焼失してしまい、職を失います。明治40(1907)年9月13日、職を求めて啄木は一人、札幌に向かいました。

函館から電車で札幌を目指す場合、現在では特急北斗で室蘭本線を走り、苫小牧、千歳を経由するルートが一般的です。しかし、啄木が移動した当時は海側ではなく山側、すなわち函館本線で長万部から倶知安、余市を抜け、小樽を経由して札幌に至る函館本線ルートしかありませんでした。

啄木は9月13日に函館を出て、14日に小樽に到着しています。啄木の次姉トラの夫である山本千三郎が小樽中央駅長であったことから、小樽は啄木にとっても馴染みのある場所だったと思われます。この次姉の家で食事をとってから、啄木は札幌に発っています。

後に啄木は自伝小説『札幌』で、札幌に向かう時の様子を以下のように描いています。

「・・・小樽で下車して、姉の家で朝飯を喫め、三時間許りも仮寝をしてからまた車中の人となつた。車輪を洗ふ許りに涵々と波の寄せてゐる神威古潭の海岸を過ぎると、銭函駅に着く。汽車はそれから真直に石狩の平原に進んだ。
 未見の境を旅するといふ感じは、犇々と私の胸に迫つて来た。空は低く曇つてゐた。目を遮ぎる物もない曠野の処々には人家の屋根が見える。

(中略)

 かくして北海道の奥深く入つて行くのだ。かくして、或者は自然と、或者は人間同志で、内地の人の知らぬ劇(はげ)しい戦ひを戦つてゐる北海道の生活の、だんだん底へと入つて行くのだ――といふ感じが、その時私の心に湧いた。」

啄木にとって、当時の札幌は「小樽の奥地」だったのですね。明治38年に日露戦争が終わり、樺太の南半分が日本の領土となったため、明治40年当時の小樽は樺太の農産物や鉱工業日の集積地として、たいへんな賑いを見せていました。一方、札幌は平原のど真ん中に作られた人工都市、発展を遂げつつあった新興都市という位置づけですから、啄木に限らず、北海道を訪れる誰もが同様の印象を持っていたとも言えるでしょう。

9月14日に札幌駅に降り立った啄木は、知人の斡旋で、札幌にあった新聞社(北門新報社)の校正係として働き始めますが、小樽に新しい新聞社(小樽日報)が設立されるという話を聞き、数日後にはあっさり小樽行きを決意します。啄木が札幌を離れたのは9月27日。札幌滞在はわずか2週間でした。

わずかな期間でしたが、札幌の町は啄木に甘美な印象を残したようです。後年書かれた随筆や歌の中にも、札幌については肯定的な表現が多く見られます。

さて、冒頭でも触れた札幌大通公園には、啄木の歌碑と坐像があるのをご存知でしょうか。歌碑には、札幌の印象を詠みこんだ一首が刻まれています。

画像


しんとして幅廣き街の
秋の夜の 
玉蜀黍の焼くるにほいよ

歌集『一握の砂』に納められた歌ですが、現代の大通り公園の光景にふさわしい一首ですね。

次回はこの像について詳しく見て行きたいと思います。




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