「萩原朔太郎展」~酒飲みだった朔太郎

世田谷文学館で開催中の萩原朔太郎展を見てきました。以前、前橋の朔太郎生家跡を訪ねた折に、前橋文学館で朔太郎ゆかりの品々を見てはいましたが、今回はまたいろいろな発見があったので紹介したいと思います。

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世田谷文学館は今回が初訪問でした。これまでも興味深い企画が開催されるたびに気にはとめていましたが、今回ようやく足をはこぶことができました。

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今回の展示は朔太郎生誕125周年という節目に企画されたものです。朔太郎の故郷である前橋文学館が所蔵する直筆原稿や書簡を中心に、小さな葉書に描かれた水彩画、直筆の楽譜、愛用のギターや長女に贈ったマンドリン、朔太郎自身が撮影した写真など、多彩な創作活動を堪能することができる構成となっていました。

目についた書簡をいくつか紹介しましょう。

明治45(1912)年6月3日に従兄の萩原栄次宛てに書かれた書簡は圧巻。中学時代、朔太郎は萩原英次に学んで短歌を作り始めましたが、その英次に宛ててノート32ページ分に書かれた手紙には、家族への思いや自らの創作活動への想いがびっしりと綴られ、書くという行為に向けられた詩人の情熱といったものを感じます。

大正8(1919)年4月17日付の朔太郎から室生犀星にあてた書簡。この時、朔太郎は33歳。

「僕は結婚準備として2週間前から酒を廃した。また品行を方正にし、心意を高潔にし、専ら心身の貞節保安を志している。之れ皆結婚準備のためである。」

私にとっての新しい発見は、どうやら朔太郎がかなりの酒好きだったということです。結婚準備のために酒を断つ、というのはどういうことでしょうか。軽い晩酌程度なら結婚前だからといって止める必要もないでしょう。一旦飲み始めると見境なく杯を重ね、周囲が困惑するようなタイプだったのでしょうか。結婚前だけは大人しくしよう、という決意は、普段よほど乱れるタイプの酒豪だったのでは、と想像してしまいます。結局、酒癖は結婚したら隠し通せるものでもないと思いますが。

そして、酒のエピソードに関連した書簡がもう一つ。

昭和14(1939)年7月12日、朔太郎が伊藤信吉に宛てて書いた一枚のはがきにはこうありました。

「小生、電車からおちて足を怪我し、一歩も歩けず臥床中です。」
解説によると、酔って帰宅する途中、小田急線世田谷中原駅(現在の世田谷代田駅)で電車から降りる際に転倒したか何かで足を痛めたようなのです。この時、朔太郎は52歳。この3年後に朔太郎は亡くなっていますが、終生酒を止めることなく、飲み続けた生涯だったことが想像できます。

調べてみると、朔太郎には酒をテーマにした詩がいつくもありました。

浅草にある神谷バーは明治45年に現在の場所に看板を掲げましたが、朔太郎も大正時代にここでグラスを傾けたことがあったようです。

一人にて酒をのみ居れる憐れなる
となりの男になにを思ふらん
(「神谷バァにて」)


また、『夜の酒場』なる一篇にも、酒飲みならではの視点が見え隠れしてします。

夜の酒場の
暗緑の壁に
穴がある。
かなしい聖母の額
額の裏に
穴がある。
ちっぽけな
黄金蟲のやうな
秘密の
魔術のばたんだ。
眼をあてて
そこから覗く
遠く異様な世界は
妙なわけだが
だれも知らない。
よしんば
酔っぱらっても
青白い妖怪の酒盃は、
「未知」を語らない。

夜の酒場の壁に
穴がある。
(「夜の酒場」)


『月に吠える』の無削除版(1917年2月刊行)なる一冊も展示されていました。「愛憐」「恋を恋する人」の二編が削除対象になったとありました。「恋を恋する人」には、男性である自身が女性の身体に憧れ、自らおしろいや紅で女になろうとする意味深な描写が出てきますが、削除を命じられるほどの衝撃作とも思えません。これも時代の流れと言うことでしょうか。


わたしはくちびるにべにをぬって、
あたらしい白樺の幹に接吻した、
よしんば私が美男であらうとも、
わたしの胸にはごむまりのやうな乳房がない、
わたしの皮膚からはきめのこまかい粉おしろいのにほひがしない
(「恋を恋する人」冒頭より)


ムットーニのからくり書物『猫町』は、たまたま実演されている時間帯に見ることができました。また朔太郎自身の朗読音声(これはCDで出版されているそうですが)も聞くことができ、充実した企画でした。

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