江戸川乱歩の弟に宛てた書簡(1)

最近、まったく別のルートから、漫画家宮尾しげを氏の直筆はがきを二通、入手しました。そのあて先が同一人物であったことから、宮尾しげを氏がこの人物と頻繁に手紙をやりとりしていたことがうかがえます。今回は、この書簡を紹介してみたいと思います。

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表面の下に「東京市豊島区巣鴨六丁目一二九〇 宮尾しげを」と住所印が押されています。消印は神田局。昭和8年7月3日と読めます。宛先は平井蒼太となっています。

この名前を目にした時、江戸川乱歩の本名である「平井太郎」という名前が思い浮かびました。もしやと思って調べてみると、なんとこの平井蒼太は江戸川乱歩の実弟であることがわかりました。

この書簡が送られた昭和8年は、平井蒼太にとってどのような年だったのでしょうか。

乱歩は三人兄弟の長男でした。1919年(大正8年)、乱歩は25歳の時、19歳だった次弟の通(蒼太)、末弟の敏男とともに上京します。彼らが本郷の団子坂で古書店「三人書房」を開いていたことは有名ですが、蒼太は1921年(大正10年)には大阪に移り電気局で働き始めました。

ところが、蒼太は1931年(昭和6年)にカリエスを病み、大阪電気局を休職して滋賀県甲賀郡寺庄村にあった妻の実家で療養生活を送ることになります。

この葉書の宛先は、「滋賀県甲賀郡寺庄村寺庄」とあります。ちょうど蒼太がカリエスで臥せっていた妻の実家の住所でしょう。時期的にもぴったり合います。

手紙の本文を見てみましょう。

「雑学○手 
すもう絵一番いゝ一枚
刷りが見当ず弱って
ます悪い奴は二枚も
見つかつてもいゝのが見
せたいです。もう少し
まつて下さいませ」

療養生活を送っていた蒼太は『麻尼亜(まにあ)』という雑誌を、また1933年(昭和8年)には『雑学』なる雑誌を編集発行していました。この葉書の文頭に「雑学」とあるのは、その雑誌のことでしょう(その下の文字がちょっとわからないのですが、「花」か「夜」でしょうか)。宮尾しげをがこの雑誌に、相撲に関する何かを投稿しようとしていたことが伺えます。

ところで、このはがきは絵葉書になっていて、裏面には下のような写真が印刷されていました。

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右下に「檪林と空林荘」と小さく書かれています。

空林荘とは何でしょうか。

小金井市浴恩館公園に「浴恩館」なる建物がありますが、これは、1928年(昭和3)に京都御所で行われた御大典で実際に使われた建物を移築し、1930年(昭和5年)より青年団講習所として利用していたものです。ここでは青年団のリーダーが養成されていましたが、その講師の宿舎として使われていたのが浴恩館のそばに建つ空林荘でした。浴恩館の所長として招かれた下村湖人が小説『次郎物語』の構想を練ったのも、この空林荘だと言われています。

この空林荘、現在も公園内に残っているそうなので、機会があれば見に行きたいところです。

宮尾しげをがなぜこの絵葉書を使ったのか、大した意味はないかもしれませんが、宮尾しげを、平井蒼太、下村湖人といった文人たちの人脈をあれこれ想像してみるのもまた一興です。

一枚の葉書でだいぶ深読みしすぎてしまいました。次回、もう一通の宮尾しげを書簡を紹介したいと思います。

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この記事へのコメント

magicana
2012年07月02日 12:12
拾い読みですが興味深く拝読しています。
さて、不明とされている1行目「雑学○手」ですが、
「落」すなわち「雑学」落手、で意味が通ると
思います。
2012年07月08日 07:18
magicanaさま
ご指摘ありがとうございます。確かに「落」に見えますね。癖のある字を読み解くのは骨が折れますが、わかった時のうれしさもひとしおです。今後とも、本ブログよろしくお願いします。

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