荻原井泉水の書簡

自由律俳句といえば種田山頭火や尾崎放哉といった名前がすぐ浮かびますが、今回は彼らの師である荻原井泉水(おぎわら せいせんすい)の書簡を紹介しましょう。

自由律俳句をはじめて提唱したのは、正岡子規の同郷の友人でもあった河東碧梧桐と言われています。碧梧桐は五七五の定型にとらわれない句作を試みるようになり、碧梧桐門下の荻原井泉水はさらにこの活動を推進しました。井泉水は1911年(明治44年)に新傾向俳句誌『層雲』を創刊、碧梧桐もこれに加わりました。印象詩としての俳句を提唱した井泉水は1915年(大正4年)に季語無用を主張しますが、このとき碧梧桐とは意見が分かれてしまいます。

井泉水は、リズム感を重視し、自由律というからには季語にもこだわらない、という意見だったようですが、碧梧桐はさすがに季語を排除してしまっては俳句が成り立たない、と考えたのでしょう。碧梧桐は層雲を去ってしまいました。

さて、ここで、井泉水が差し出した書簡を見てみましょう。

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井泉水は昭和4年から昭和51年に91歳で亡くなるまで鎌倉に住みました。妻や母が亡くなって一時期仏道を志し、諸国を遍歴した時期もあったようですが、昭和4年に再婚しています。この再婚を機に鎌倉に居を定めたのです。

この書簡には昭和4年の鎌倉局の消印が見えますので、鎌倉の新居で新婚生活(といっても二度目の結婚ですが)を始めた頃に差し出されたものでしょう。

あて先は「長野県東筑摩郡和田村小学校 矢崎栄次郎様」となっています。和田村は1954年8月1日に松本市に編入されてしまいましたが、歌人の窪田空穂の出身地であり、和田村小学校は窪田空穂の母校でもあります。矢崎氏がどのような人物なのかは不明ですが、歌壇俳壇つながりで、井泉水と交流があったのかもしれません。

差出人の住所は、鎌倉町佐介谷792とあります。

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尾崎放哉は、井泉水の一高時代の同窓であったことから門下に加わり、また、種田山頭火は1913年(大正2年)に井泉水の門下となり、1916年(大正5年)には『層雲』の選者にも参加していますが、井泉水と山頭火が実際に顔をあわせることはなかったようです。

せっかくなので、鎌倉を題にとった井泉水の句をいくつかあげておきましょう。

「極楽寺は青空に梅が咲くところ」

「窓を開く山越えてくる鎌倉の海風として」


海や山に抱かれた鎌倉のすがすがしい涼風がつかめそうな句ですね。

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この記事へのコメント

うさぎ
2012年06月14日 17:40
矢ヶ崎栄次郎は、俳人・矢ヶ崎奇峰の本名です。(明治3年~昭和23年)
当時の和田小学校では、校長を務めていたのではないでしょうか。奇峰は、子規庵のメンバーであり、窪田空穂が親しく兄事した先輩です。島木赤彦の「比牟呂」にも参加、「歌人内山真弓」を著しました。奇峰の妻の妹のみつは、後の太田水穂夫人の四賀光子です。奇峰の死後、空穂は「奇峰のなき故郷おもへば俄にも遠くなりたるここちするかな」と詠んでいます。長野県松本市和田の歌碑公園に奇峰と空穂の歌碑があります。
2012年06月20日 05:11
うさぎさま

コメントありがとうございます。やはり俳人関係のつながりがあった方だったのですね。勉強になりました。一通の書簡から、差出人と宛名人の間に広がる人間ドラマを味わうことができたことを嬉しく思います。長野には詩歌ゆかりの地が多いですね。塩尻の短歌館は訪れたことがありますが、和田の歌碑公園にも一度足を運んでみたいと思います。

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