宮澤賢治が暮らした自啓寮

本日、8月27日は宮澤賢治の誕生日です。今から117年前の明治29(1896)年8月27日、宮澤賢治は岩手県稗貫郡花巻町(現在の花巻市)に生まれました。今日はそれにちなんで、賢治が通っていた盛岡高等農林学校の絵葉書を紹介しましょう。

以前、このブログでも、盛岡高等農林の絵葉書を紹介しましたが、この絵葉書はブログが縁で、もう一通の明治期に差し出された盛岡高等農林のはがきとともに、弘文堂の『宮澤賢治イーハトヴ学事典』に掲載いただきました。

今日紹介するのは、賢治と同時代に盛岡高等農林の寄宿舎に住んでいた人が差し出した手紙です。まずは宛名面をごらんください。

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残念ながら消印の年号が不鮮明なのですが、おそらく大正期だと思われます。宛名は、「東京神田区柳原川岸勢國屋方 大村斉様 御内」となっています。柳原は、神田川の万世橋から浅草橋に至る南岸一帯をさす江戸時代からの呼び名です。柳原川岸(柳原河岸)という地名、調べてみると昭和初期の町名改正時期には消滅していますが、現在の千代田区神田須田町二丁目から岩本町の神田川南岸一帯にあたるようです。勢國屋はちょっとわかりませんが、この一帯にあった問屋、商家の屋号でしょうか。

差出人は「盛岡高等農林学校 寄宿舎 三浦弟二郎」と読めます。

絵葉書の裏面を見てみましょう。

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キャプションには白抜きで「盛岡高等農林学校」とあり、校舎の写真がアレンジされています。校舎の前に広がる畑には立札がずらりと並んでいます。植えられている植物の名前を記してあるのでしょう。

小さな文字で記された本文には、「在京中は一方ならぬ御好意を承り有難厚く御礼申上 云々」とあります。差出人は地方から上京し、東京でしばらく生活した後、盛岡に赴いたのでしょうか。

「三十一日午后一時着 直ちに入舎」「当地積雪一尺余りなることも中々さかんなるものに」と続く文面からは、雪深い盛岡の地に暮らすことになった不安が伝わってくるようです。消印が2月3日ですので、1月31日に盛岡に到着したものと思われます。

よく見ると、写真の真ん中ほどにカタカナで「キシクシヤ」という書き込みがあります。差出人が暮らしていた寄宿舎のことでしょう。これが、賢治も入寮していた寄宿舎「自啓寮」です。

賢治が故郷花巻を離れ、自啓寮で暮らしていたのは大正4年(1915年)4月から大正6年4月までの二年余りでしたが、賢治にとっては実に密度の濃い刺激的な二年間だったようです。賢治の入寮から遅れること一年、大正5年4月13日に賢治と同じ部屋に入寮した保阪嘉内は賢治の生涯にとってかけがえのない親友となり、後の作品『銀河鉄道の夜』に登場する主人公ジョバンニの親友カンパネルラにはこの保阪嘉内のイメージが投影されていると言います。

私も学生時代に3年ほど、大学の傍にあった風呂なしの下宿屋で多くの同世代の人たちと同じ釜の飯を食べていた時期がありますが、今思えば数多くの新しい出会いの中で、まだ見ぬ世界観が広がっていく興奮は心地よいものでした。

一枚の古い絵葉書から、そんな青春の一ページをふと思い出してみたりするのも、また楽しいものです。

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この記事へのコメント

magicana
2013年08月27日 23:26
大変興味深いですね。手紙は相手に分かる程度にしか書かれていないので、他人が読んでも十分理解出来ないところがある、そこにいろいろと想像を働かせるところに、どこまでも尽きせぬ興味があります。

さて、消印はアップされている精密な画像で見ても残念ながら年が判別出来ませんね。
ただ、切手がヒントになるのではないかと思います。
すなわち、この1銭5厘切手は主に明治30年代に発行されていた菊切手です。明治期まで遡る可能性もあるのではないでしょうか。ちなみに「盛岡高等農林学校からの手紙」に紹介されている葉書にあるのは、同じ1銭5厘切手でも大正2年(1913)以降の田沢切手です。

それから、人名でも調べて見ました。「三浦弟二郎」と判読されていますが、草書では「弟」と「第」は殆ど区別が付かない字体で書かれます。そこで「三浦第二郎」で検索してみたところ、コトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」に立項されていました。

三浦第二郎 みうら-だいじろう

1883-1934 明治-昭和時代前期の林学者。
明治16年8月生まれ。岐阜農林学校などをへて大正7年母校盛岡高農の教授。昭和9年3月6日死去。52歳。石川県出身。

大正7年(1918)に母校盛岡高農の教授、とあるところからして、この葉書は三浦氏の学生時代、明治期のものである可能性が高いように思います。
(三浦氏について、これ以上の情報はネット検索では出て来ないようです)
magicana
2013年08月27日 23:45
国会図書館サーチを見てみました。
いくつかヒットしましたので近代デジタルライブラリーでざっとチェックしました。
大正15年(1926)7月1日に北海道帝国大学から林学博士号を授与されていること、それから独文の論文に「TEJIRO MIURA」とあること、すなわち名前の読みは「だいじろう」ではなく「ていじろう(テージロー)」らしいことが分かりました。
今後、気を付けてみます。
magicana
2013年08月28日 10:55
連投で申し訳ありません。

宛名の「大村斉」ですが、陸軍少将で第10代の陸地測量部長だった人のようですね。大正15年(1926)2月26日創立の日本写真学会の初代会長でした。Weblio辞書の「地図測量人名事典」には(?~?)すなわち生没年未詳とありますが、昭和37年(1962)9月の「日本写真学会誌」25巻3号の巻頭に、第2代会長の鎌田弥寿治が「大村斉先生の訃を悼む」を寄せていますから、昭和37年没でしょう。
晩年、昭和30年頃に幾つかの関係学会誌に回顧記事を執筆していますので、これらを一覧すれば生年や詳しい経歴もはっきりするでしょう。国会図書館でゆっくり調べものをする暇があれば、と思います。
2013年08月29日 06:01
magicanaさま
詳細な情報を提供いただき、ありがとうございます。大変参考になります。差出人は後に盛岡高等農林の教授となった三浦第二郎で間違いなさそうですね。郵便料金は明治32年4月1日から昭和6年7月31日まで一銭五厘だったこと、使われている一銭五厘の菊切手は明治33年10月1日に発売されていることから、差出時期は明治34年2月までさかのぼることができそうです。三浦氏が明治16年生まれ、盛岡高等農林に学んだ時期が二十歳前後の学生時代、と想定すると、明治34年~36年あたりでしょうか。宮澤賢治が盛岡高等農林で学んだ大正4年~6年にはすでに教職にあった可能性もあり、もしかすると賢治と接点があったかもしれません。また何か情報がございましたらご教示いただけると幸いです。
2013年08月29日 06:09
magicanaさま
宛名人についても調査いただき、ありがとうございます。葉書の文面や言葉遣いから差出人よりは年上と思われますが、もし経歴などわかれば、さらにいろいろなことが見えてきそうです。よろしくお願いします。

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