松山の絵はがき~糸瓜忌にちなんで

本日、9月19日は正岡子規の命日、糸瓜忌です。 1902年(明治35年)9月19日、正岡子規はわずか35歳で世を去りました。それにちなんで、正岡子規の故郷、松山の歴史を感じさせる絵葉書を2点、紹介しましょう。

まずは、松山城の遠望写真をデザインした戦前の絵はがきです。

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キャプションには右書きで「道後名勝 道後公園より松山城を望む」とあります。道後温泉の傍にある道後公園内の丘陵、おそらくは湯築城跡の展望台あたりから、松山市の中心部にある勝山(標高132m)をはるかに望む景色です。勝山の山頂には松山城の天守閣がくっきりと浮かび上がっています。

松山城に向けて大きくカーブした道は、現在路面電車(伊予鉄城南線)が走っている平和通でしょうか。一帯には、のどかな住宅地が広がり、子規が暮らしていた時代の雰囲気をまだ幾分は感じ取ることができる景色であるように思います。

次は、松山市内の子規ゆかりのスポットをアレンジした絵葉書です。

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左側に子規堂、右側に子規の遺髪を埋めた埋髪塔がデザインされています。子規堂は、子規が17歳で上京するまで暮らしていた家を、正岡家の菩提寺である正宗寺(しょうじゅうじ)境内に復元したものです。最初の子規堂は、大正15年に松山市湊町4丁目1番地にあった正岡家の旧居の一部を移築して建てられました。しかし、昭和8(1933)年に火災にあい一度再建されたものの、戦災でまたも焼失してしまいました。昭和21(1946)年に当時の記録などをもとに再現されたのが現在の建物になります。現在は、子規の愛用した机や遺品、遺墨などを展示した記念館として一般に公開されています。
 埋髪塔は同じく正宗寺の境内にあり、明治37(1904)年、子規の三回忌に、正宗寺の住職が遺髪を埋めて建立したものです。子規のレリーフと文字は下村為山の筆になるものです。

この絵葉書は実際に差し出されたもので、はがき表の切手に押された松山局の機械印には昭和32年7月5日の日付を読み取ることができます。

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つまり、この絵葉書にある子規堂は、昭和21年に再建されてから10年以内の、昭和30年頃の光景ということになります。私が9年前(2004年)に松山を旅行し、子規堂を訪れた時の写真がありますので比較してみましょう。上が絵葉書の拡大、下が2004年当時の写真です。

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建物の正面左側にある大きな石碑は移設されたようです。かわりに狸の置物が鎮座し、入口の右手には、屈んで草鞋のひもを結びなおす子規の像が新たに設置されていることがわかります。建物正面に植えられた樹木がかなり成長していることからも、時代の変化を読み取ることができます。

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子規堂前に立てられた解説板で、子規と松山のつながりを知ることができます。
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2004年当時に撮影した松山の写真はまだいろいろありますので、また機を改めて紹介したいと思います。

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