晩年の子規が口にした食事~糸瓜忌にちなんで

昨日の糸瓜忌にちなんで、今日も正岡子規について書いてみたいと思います。

晩年の子規は脊椎カリエスという重病に侵され、寝床から起き上がることすら困難でしたが食欲は至って旺盛でした。明治34年9月2日、子規は病床の日々を『仰臥漫録』という手記に綴りはじめました。この『仰臥漫録』には、自ら口にした日々のメニューが克明に記録されています。東京根岸の子規庵で、それらの記録をもとにメニューを再現した模型が展示されていますので紹介しましょう(これらの写真は2009年8月に雑誌の取材で子規庵を訪問し、撮影させていただいたものです)。

明治34年9月21日、ちょうど死の一年前あたる、ある一日の子規の食事を見てみましょう。
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まず、朝食です。ご飯三椀、佃煮、梅干、牛乳一合(ココア入)、菓子パン、塩せんべいが並んでいます。牛乳にはココアを入れるのがお気に入りだったようです。
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次に昼食。まぐろの刺身、粥二椀、なら漬、胡桃煮付、大根もみに梨が一つ。ご飯やお粥はいつもおかわりしていたようです。
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午後には間食。餅菓子が一、二個、菓子パン、塩せんべい、渋茶で空腹を満たしていました。
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そして夕食。きすの魚田二尾、ふきなます二椀、なら漬、さしみの残り、粥三椀、梨、葡萄を平らげていました。
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一日の食事量を見ると、とても病人とは思えない量とバリエーションです。また別な日の記録には、夕食に鰻の蒲焼きを七串も平らげたと記されており、胃腸だけは相当丈夫だったことがうかがえます。甘いもの、脂っこいものなんでも平気、果物も好物で、上にあげた梨や葡萄の他にも、スイカ、リンゴ、桃やパイナップルの缶詰など、食事には必ず果物が添えられていました。

こうした記録を日々残すことが、子規にとっては生きている証、自らの生のエネルギーを確認する行為だったのかもしれません。

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