窪田空穂の隣に住んでいた「先生」の謎

昨年5月、窪田空穂の書簡とその本文をこのブログで紹介したところ、書簡の宛名人に関する詳細なコメントをいただきました。その中で、「隣りの先生、虫歯でやつれてゐます。」という部分の「隣の先生」について、少し調べてみましたので紹介いたします。

ブログのコメントでは、會津八一のエッセイ『續渾齋隨筆』(中公文庫)にそのヒントがあるとご教示いただきました。

會津八一については、新潟にある記念館や墓、奈良に点在する八一の歌碑などをめぐり歩いたこともあり、一時期いろいろ調べていました。この文庫も手元にありましたので、指摘の記述を確認してみました(写真の一番手前の本)。

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この本は、會津八一が生前刊行したエッセイ集『渾齋隨筆』に続き、八一の没後にその続編として刊行されたもので、歌人として、また文学者としての八一の力量が発揮された34篇のエッセイが収録されています。

その冒頭に、八一が親しく交流していた友人の追悼記「山口剛君のこと」が収録されています。これは、八一が『早稲田学報』1932年(昭和7年)12月号に発表したもので、その中に、以下のような記述がありました。

「山口君は私と知つた頃は浅草の松葉町といふ所に住んでをられた。そして後に駒方の河岸の叔母さんの家へ越されたのであつた。(中略)その後はしばらく本郷に居り、本郷から雑司ヶ谷に越して来て窪田空穂君の隣で住はれた。」

「窪田空穂君の隣」というだけでは確証はもてませんが、この山口剛は窪田空穂や會津八一と同様、早稲田の国文科で教壇に立っていた、れっきとした「先生」でした。虫歯で苦しんでいた先生が、この山口剛であることは、ほぼ間違いないのではと思われます。

では、この山口剛とは、どのような人物だったのでしょうか。

山口剛(1884~1932)は、茨城県新治郡土浦町(現在の土浦市)に生まれました。明治35年の4月、會津八一と一緒に、早稲田大学の前身である東京専門学校の高等予科に入学しました。その後予科を一期で出て高等師範部へ進み、明治38年に国漢文科を首席で卒業したといいます。その後一度群馬の中学の教師を勤め、明治43年の秋に坪内逍遥に招かれ、早稲田中学の教員として赴任、のち早稲田大学文学部教授となり、江戸文学や中国文学を講じました。江戸文学の厳密な本文校訂と解題で業績を残し、1932年(昭和7年10月8日)に48歳で亡くなっています。

国文学という共通の領域で交感するものがあったのでしょう。山口剛は空穂よりも7つ年下でしたが、家が隣であったことも相まって空穂と親しく交流していたことが、ブログで紹介した書簡からもうかがうことができます。また、空穂の笹野堅宛ての手紙で、山口剛が名前ではなく「隣の先生」という記述で表現されていることから、笹野堅と山口剛にも親しい交友関係があったと見てよいでしょう。

これもブログのコメントでご教示いただいたのですが、法政大学の「能楽研究」23号(1999年3月発行)に掲載されている笹野堅氏旧蔵文献資料目録によると、山口剛から笹野堅に宛てた書簡が能楽研究所に残されているようです。どのような書簡なのか、内容が気になります。

さらに、『早稲田学報』に追悼文を寄せていることからもわかるように、會津八一は山口剛の力量を高く評価していたと言えますから、窪田空穂と笹野堅、山口剛、そして會津八一という教養人たちが交流しながら活躍していた時代を、ブログで紹介した一通の書簡から感じ取ることもできそうです。

一見見過ごしてしまいそうな書簡の表現に注目し、コメントにて詳細な情報提供をいただいた読者の方に感謝いたします。

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