萩原朔太郎の妹宛て書簡

ここに一通の書簡があります。宛名は、前橋の津久井幸子という人物です。

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ふと気になって調べてみたところ、この人物は、詩人・萩原朔太郎の妹であることがわかりました。また、あて先の住所「前橋市北曲輪町六十九」は、萩原朔太郎の生家の住所でした。今回、この生家跡を実際に尋ねてきましたので、紹介したいと思います。

萩原朔太郎の実家は萩原医院という開業医でした。代々、萩原家は八尾で医者を営んできた家系でした。朔太郎の父密蔵は三男でしたが、24歳で上京して東京帝国大学医学部に入学、医師となって前橋で萩原医院を開業していました。

朔太郎には四人の妹がいました。

そのうちの一人、ユキ(幸子)は、明治27年11月21日、朔太郎が八歳の時に生まれています。明治43年10月、ユキは医師津久井惣治郎と結婚し、山形に赴きますが、明治44年に津久井惣治郎は前橋に戻り、萩原医院を手伝うようになりました。

大正8年10月20日、密蔵は老齢となったため、萩原医院は津久井惣治郎夫妻に譲り、津久井医院となりました。萩原家は前橋市内の石川町28番地に移り住んでいます。つまり、朔太郎の生家には、津久井家が住むことになったわけです。

ここで、改めて書簡を見てみましょう。

あて先は、「前橋市北曲輪町六十九 津久井幸子様」とあります。朔太郎が生まれた当時は、群馬県東群馬郡前橋北曲輪町六十九というのが正式な住所表記でした。現在の、前橋市千代田町二丁目一番十七号にあたります。

消印は、昭和26年6月11日。差出人の住所は世田谷で、局名は世田谷若林と読めます。貼られている切手は、産業図案の郵便配達30円(昭和24年5月10日発行)と、観光地百選の箱根温泉(昭和26年5月25日発行)。当時の封書料金8円に、書留料金30円を加貼した、ごく一般的な使用例です。

ところで、なぜこの手紙が書留で差し出されたのでしょうか。

実はこの書簡、中身が残っており、文面には、「ご主人様永らく御病気のところ去る三十一日ご永眠遊ばしました故・・・」「心ばかりで御座いますが御仏前へ供え頂きたく同封いたしましたから・・・」とありました。病床にあった幸子の夫、つまり津久井惣治郎が昭和26年5月31日に亡くなり、その香典が同封されていたようです。香典そのものは残っていませんでしたが、現金を入れていたために書留としたのでしょう。

このとき、すでに朔太郎は亡くなっていましたが、この書簡は朔太郎にゆかりのある人物が亡くなった時期を知る、ちょっとした資料と言えるでしょう。

さて、朔太郎生家跡の訪問記は、次回、紹介したいと思います。

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  • 萩原朔太郎の生家跡訪問記

    Excerpt: 前回のブログで、萩原朔太郎の妹宛てに差し出された書簡を紹介しました。 Weblog: 切手と文学 racked: 2011-03-20 16:51