文士が愛した鵠沼の東屋旅館(2)

前回のブログで紹介した、鵠沼の東屋旅館跡。その敷地跡で見つけたあるものを紹介したいと思います。

これは、前回紹介した記念碑。この右手が、かつての東屋旅館の正門でした。

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この記念碑から左に進み、旅館の敷地だった場所を歩いてみました。

ふと見ると、民家の塀に沿った地面に、何やらプレートが埋め込まれています。

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「文人が逗留した旅館 「東屋」海浜口門柱跡」とあります。藤沢市教育委員会によって、2005年11月に設置されたもののようです。

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上の写真で、左下の塀の下に見えるのが、このプレートです。

かつてはここが、東屋の敷地の端にあたっていたのでしょう。現在は住宅街となり、文士が逗留していた頃を偲ぶよすがもありませんが、このプレートからいろいろな想像が膨らみます。

解説版にあった敷地の平面図を見てみましょう。

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右下に「現在地」とあるのが記念碑の場所、左上に見える「裏門」というのが、例のプレートが埋められている「海浜口」だと思われます。東屋の正門は、敷地の駅方面の角にありました。海に出るには、その正門とちょうど対角線の位置にあったこの裏門を抜けて行くのが近かったと思われます。

鵠沼海岸駅の前にあった地図を撮影し、東屋の記念碑の場所①と裏門の門柱跡②の位置を画像に追記してみました。

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この対角線を囲む四角い敷地が東屋の跡にあたります。

かつてここに逗留した芥川龍之介は、鵠沼海岸を舞台にした掌編『蜃気楼』のなかで海岸を散策するシーンを描写していますが、芥川も恐らくこの裏門を抜けて、海岸に出たのでしょう。

大正15年の秋、鵠沼の砂丘で蜃気楼が見えるということが話題になりました。これは、東屋のすぐ近くに住んでいた横浜高等工業専門学校(横浜国立大)応用化学一年生だった高木和男氏が大学の物理の教授に報告したのがきっかけでした。教授が実際に鵠沼を訪れて観測、鵠沼で蜃気楼が見えるということが大正15年10月28日の東京朝日新聞で報道され、世間でも話題になったのです。実際には、逃げ水のような現象だったようです。

芥川もこの現象に興味を持ち、友人二人と見物に行きます。砂浜の上に腹ばいになったり、陽炎の立った砂浜を眺めたりしましたが、結局蜃気楼は思うように見えませんでした。この時、友人の一人が、水葬の死体に結びつけたと思われる木製の名札を拾い上げるのですが、このエピソードは『蜃気楼』にも描かれています。

芥川は、この作品を発表した四ヵ月後に、自らの命を絶っています。そういえば、昨日(7月24日)は芥川の命日、河童忌でした。

敷地沿いに一軒、茅葺の屋根を見つけました。東屋が営業してた当時からの建物なのかどうかは不明ですが、こうした風情のある景色は、いつまでも残して欲しいものです。

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近所で見かけたおもちゃ屋。「あづまや」という名称は、かつての旅館の名前にあやかったものかどうかは不明です。

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鵠沼海岸駅前の雑貨屋では、カラフルな浮き輪やビーチサンダルであふれていました。かつて多くの文人たちが海を眺めながら過ごした鵠沼の町には、今も変わらない海風が吹き渡っていました。

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