島崎藤村と懐古園~「田中君」の謎

島崎藤村は、明治32年4月、信州北佐久郡小諸町にある小諸義塾に教師として赴任しました。この小諸義塾のそばには、小諸城の跡地である「懐古園」があり、藤村も学生を連れてたびたびここを訪れています。

藤村の代表作の一つ、「千曲川旅情のうた」の冒頭には、「小諸なる古城のほとり 雲白く遊子かなしむ」とありますが、この「小諸なる古城」が懐古園のことです。

この懐古園の古いパンフレットを入手したので紹介したいと思います。

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パンフレットの表紙に使われているのは、藤村の肖像写真。写真の周辺に「田中君に呈す 大正十一年九月 藤村書」というペン書き文字が見えます。藤村自身の筆跡でしょう。写真館で撮影した写真の台紙にサインしたものを、台紙ごと、パンフレットの表紙デザインとして取り込んだもののようです。

ところで、「田中君」というのは、一体どのような人物なのでしょうか。

「君」という呼称をつけていることから、同年代かまたは後輩だと思われます。大正11年当時、藤村は51歳。1月から藤村全集 全12巻の刊行が始まるなど、作家としての地位も確立された時期に当たります。

藤村の年譜を調べてみると、何人かの「田中君」が登場します。

まず、明治45年6月初め、藤村の次兄広助の長女久子が、藤村の世話で田中文一郎に嫁いでいます。田中文一郎は外交官ですが、姪の配偶者ということで、大正11年時点でも交流があったことが伺えます。

気になるのは、藤村自身が書いた、「大正11年9月」という日付。この時に藤村の周辺では何があったのでしょうか。

藤村は大正11年9月5日に、アルス社より『飯倉だより』を刊行しています。ここには、「芭蕉」、「北村透谷二十七回忌に」などが収録されていますが、このアルス社が出版していた「日本児童文庫」の挿絵画家に、田中良という人がいます。「日本児童文庫」の著者・編者には、小川未明、北原白秋、坪内逍遙、鈴木三重吉などと並んで島崎藤村も名を連ねていますので、どこかで交流があった可能性はありますが、それを裏付ける資料は見つかりませんでした。「日本児童文庫」の刊行も昭和2年からですので、時期的にもちょっと無理があるような気がします。ちなみに田中良は1884年生まれですので、藤村よりも12歳年下です。

また、藤村は大正11年9月18日には、自身のフランス旅行体験を綴った『エトランゼエ』を春陽堂から刊行していますが、この春陽堂に田中純という編集者がいました。

田中純は1890年生まれですので藤村の18歳年下です。早稲田大学英文科を大正4(1915)年に卒業して春陽堂に入り、『新小説』編集部に属していたといいますから、かつて『新小説』にも作品を発表していた藤村とはつながりがあったと思われます。

他にも、藤村の小説『夜明け前』の執筆にあたって大きな力となった田中宇一郎も気になる「田中君」の一人です。

さて、真相は一体どこにあるのでしょうか。個人的には田中純ではないか、という気がしていますが、懐古園はまだ行ったことがないので、ぜひ一度足を運び、「田中君」についても調べてみたいと思っています。

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