啄木と銀座

昨日、4月13日は、石川啄木が亡くなってちょうど100年目にあたる日でした。それにちなんで、啄木の歌碑がデザインされた銀座の朝日ビル内郵便局の風景印を紹介しましょう。

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啄木は北海道各地を放浪した後、明治41年に上京、朝日新聞編集長であった佐藤北江氏に履歴書を送ります。佐藤北江は啄木と同じ岩手出身で、かつては岩手新聞の記者でした。当時北江は42歳。24歳の同郷の後輩を可愛く思ったのでしょう。啄木は無事採用されることに決まり、校正係として3月1日から朝日新聞社で働き始めました。
啄木は同年6月、函館に残してきた家族を呼び寄せ、翌43年には朝日新聞に歌壇を設けて選者となるなど、歌人として活躍します。

風景印に描かれているのは、銀座みゆき通りの朝日ビル前に立てられている啄木の歌碑です。

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ここは、かつて啄木が勤めていた朝日新聞社があった場所で、次の歌が刻まれています。

京橋の瀧山町の
新聞社
灯ともる頃のいそがしさかな


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 啄木が働いていた新聞社は夕暮れ時になると翌日の朝刊の準備で忙しさを増していたことでしょう。あわただしく原稿が飛び交う社内の喧騒が聞こえてきそうです。
 当時、この一帯は「京橋区」でした。京橋区は明治11年に制定された区名で、昭和22年に中央区に改められるまで70年にわたって使われていました。また「瀧山町」はこの地を開拓した名主、瀧山藤吉の名にちなんでつけられた町名です。昭和5年に住所表記が改称され「京橋区瀧山町」は「中央区銀座六丁目」という表記になりますが、歌に詠みこまれる地名としては、「六丁目」よりは「瀧山町」の方が味がありますね。

歌碑の上部には、啄木のレリーフがデザインされています。

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下部に、この碑の由来が記されていました。その解説によると、この碑は啄木没後60年を機に昭和48年(1973)年4月1日に建てられたそうです。

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裏面には、「京橋の瀧山町」の由来が記されていました。碑文の書体は、歌集「一握の砂」初版本の活字を拡大して使ったようです。

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また、その上に、「銀座の人これを建つ」と縦書きの文字が刻まれていました。

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さらに碑の裏面上部(車道側)に何やらオブジェが。よく見ると、「啄木」というペンネームのもとになったキツツキがとまっているのです。あらためて眺めてみると、碑全体が樹木の幹になっており、キツツキが止まってその幹を突っついている趣向になっているようです。

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さて、啄木は明治44年2月に腹膜炎を患い入院の後、自宅で療養生活に入ります。妻の節子や母も病に臥せって、一家は窮乏と病苦の生活を強いられました。そして明治45年(1912年)3月7日に母親が肺結核で亡くなると啄木の病勢も悪化。4月13日午前9時30分、妻と父親、そして歌人仲間だった若山牧水の三人に看取られて永眠しました。享年わずか26歳と6ヶ月という若さでした。

今回紹介した風景印を押印した朝日ビル内郵便局は、この碑のすぐ目の前の朝日ビルの地下にあります。

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道路わきにあるポストはなぜか黒い色をしています。銀座の町並みの中で目立ちすぎないよう配慮しているのかもしれません。

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碑の側面と裏面は、太いパイプの防御柵で覆われています。この一帯は、車通りが決して少なくありませんので、自動車が碑に気づかずに接触したりしないように設けてあるのかもしれません。

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この碑はまさに「灯ともし頃」に訪れました。背景に輝くネオンは啄木が通っていた当時にはなかった「灯」かもしれませんが、銀座の夜景の下にひっそりとたたずむこの歌碑は、銀座の華やかな歴史をこれからも眺め続けていくことでしょう。

ちなみに、二年前、2010年には啄木の歌集『一握の砂』刊行100年記念のフレーム切手が発行されましたが、没後100年には特に何も発行されていないようです。

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