斎藤茂吉が長崎から差し出したはがき

先日、神奈川県立近代文学館で観覧した茂吉展では茂吉が長崎から差し出した書簡が何点か展示されていましたが、私も茂吉の長崎時代の葉書を一通所有していますので、紹介したいと思います。

茂吉は大正6年(1917年)、それまで勤めていた東京府巣鴨病院を辞し、東京帝国大学医科大学助手の肩書きも捨てて、12月に単身長崎に赴任します。長崎医学専門学校の精神病科教授となった茂吉は、大正10年(1921年)3月までの3年と3カ月を長崎の地で過ごしました。

画像


この葉書は、茂吉が大正7年3月23日、長崎に赴任して3カ月あまり経った頃に差し出されたものです。消印の局名は不鮮明ですが、右書きで書かれた局名の冒頭は「長崎」と判別できます。宛名は「東京麻布区 材木町六九 舟木重信」、切手の下の署名には「長崎県立病院 斎藤茂吉拝」とあります。

舟木重信は茂吉よりも11歳年下の小説家で、ハイネやゲーテを研究していたドイツ文学者でもあります。茂吉と舟木にどのような接点があったのか、まだ調べきれていませんが、茂吉の処女歌集「赤光」が文壇内外に大きな反響を巻き起こしたのが大正2年で、それから5年後にこの葉書が書かれていますので、やはり文壇で何らかのつながりがあったのではないかと思われます。

本文を見てみましょう。

「異象」毎号御象与ニあづかり有難く御禮申上げ候。宇野君にもよろしく御伝え願上げ候。長崎はよい処のやうに思へども、見物の心持ニはなれず、矢張り毎日の事に追はれ参ります。東京が恋しくなります。

「異象」は舟木重信により創刊された文芸誌のようです。発行の都度、茂吉に送っていたのでしょう。手紙には、赴任しても毎日の仕事に追われ、街中を見学する気分にもなれないこと、東京が恋しく思われることが記されています。茂吉にとって、住み慣れた都会、三年前に結婚した妻を置いてきた東京は、やはり恋しい土地だったようです。そんな心情を吐露するあたり、二人の関係は儀礼的なものではなく、比較的親密だったのではと想像されます。

この葉書の裏面には、茂吉が勤務していた長崎医学専門学校の写真が印刷されています。長崎医学専門学校は、明治34年(1901年)に第五高等学校から医学部が独立して設立された学校で、翌明治35年には附属の長崎病院が開院しています。このはがきの署名に「長崎県立病院 斎藤茂吉」とあることからわかるように、茂吉は専門学校で教える傍ら、長崎病院で患者も診ていたようです。

画像


画像


ちなみに、県立長崎病院は茂吉がまだ勤務中だった大正11年(1922年)の4月1日に国に移管され、長崎医学専門学校附属病院と改称しています。

年譜によると、この時期茂吉は神経衰弱を煩っていたともあります。長崎という土地が、茂吉をどのように迎えてくれたのかを垣間見ることができる葉書と言えるでしょう。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 1

なるほど(納得、参考になった、ヘー)

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック